海蔵寺方面から源氏山に通じる切通で、新田義貞が鎌倉攻めの際に使ったといわれていて国の史跡に指定されています。
南北朝時代の歴史書の「梅松論」には、化粧坂山上の北側の「葛原」が戦場として登場します。鎌倉七口のなかで最も斜面が急な「切通」で、新田義貞はここを突破できず、稲村ヶ崎から鎌倉中に攻め入ったと書かれています。
海蔵寺方面から源氏山に通じる切通で、新田義貞が鎌倉攻めの際に使ったといわれていて国の史跡に指定されています。
南北朝時代の歴史書の「梅松論」には、化粧坂山上の北側の「葛原」が戦場として登場します。鎌倉七口のなかで最も斜面が急な「切通」で、新田義貞はここを突破できず、稲村ヶ崎から鎌倉中に攻め入ったと書かれています。